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シカゴジャズの流れ

青木達幸

シカゴに南部のジャズ・ミュージシャンが移動をはじめたのは1915年頃である。特に1917年の売春防止法の施行、ストーリービル歓楽街の閉鎖などにより、ニューオリンズから多くのミュージシャン達がシカゴに流れ移ってきたのである。

1920年代には、多くのジャズクラブが開かれ、キング・オリバー、フレディー・ケッパード、ジェリー・ロール・モートン、ジョニー・ドッジをはじめ、ジャズ史上初の白人ジャズバンドをリードしたトム・ブラウンらがシカゴジャズサウンドの基盤を築きはじめた。 また、第一次大戦にともなう中西部における産業の発達と同時に多くの黒人がシカゴに集まってきたこともジャズの発展には欠かせない要因である。当時シカゴジャズ・シーンのイベント屋として名高いジョー・オリバーの活躍、そして1922年7月8日にルイ・アームストロングがシカゴ駅に到着し師匠キング・オリバーとの演奏活動を始め、また白人プレーヤージミー・マクポートランド、バッド・フリーマン、ベニー・グッドマンらの活躍がシカゴジャズを確固たるスタイルとしていった。

ほとんどの黒人は市内ステート・ストリートの南、16番街から35番街に密集し、特に35番街付近はブラック・エンターテーメントの中核となった。これが「ロアリング・トゥエンティーズ」と呼ばれる、酒とダンスとギャングスターの20年代である。その後、クラブのメッカは47番街へと移動することになり、シカゴジャズは第一世代から次の世代へと移行しはじめる。

30年代の大恐慌には、多くのクラブが閉鎖し、ジャズの中心は徐々にニューヨークへと移動していった。また、30年代にはすでにシカゴにはブルースが定着してジャズとの融合的なサウンドも生まれていた。40年代から50年代に、ジャズはビパップの時代を迎え、チャーリー・パーカーらの演奏がシカゴを訪れ、サウスサイド、ダウンタウンにもその音楽的影響が見られるようになった。(ちなみにチャーリー・パーカーの最後のシカゴ公演は63番街のビー・ハイブというクラブである)。

60年代初期にはビバップもシカゴに定着し、シカゴ独自のシカゴ・バップがスタイルとして確立された。そして、シカゴジャズはさらに新たな革命の本拠地となる。60年中期から、リチャード・エイブラムスによって発足したシカゴ前衛派AACMの活動がそれである。従来の文法とは全く違った概念から即興演奏の表現を試みたロスコー・ミッチェル、レスター・ボウイーらの活動は前衛ジャズのサン・ラ楽団や日本でもお馴染みのアート・アンサンブル・オブ・シカゴなどの功績の基礎を形成した。

こうして70年代のシカゴはジャズのあらゆるスタイルの融合を迎え、数々のサウンドを生みだしていった。80年代、90年代に入ると定着し、確立されたシカゴバップ、モダンジャズ、シカゴジャズブルース、シカゴ前衛派/フリージャズなどのスタイルを新たな展開から守るべく各スタイルのプレーヤー達が保守的な活動を重視するようになり、音楽における政治的活動の展開、レコード会社などの政治活動が目立つようになり、これもまたシカゴジャズシーンの特徴の一つとなった。

こうして発展を続けてきた現在のシカゴジャズは、ある程度の例外を除いて、大きく4つの代表的なスタイルによって把握することができる。

「シカゴ・バップ系」のサウンドは典型的なビバップのスタイルをもち、サックス、トランペット等の管楽器をリードとして演奏をするものである。 バップ系の中でもビックバンド、スイングジャズ・タイプと少々ブルースよりのタイプが見られる。通常”シカゴのジャズ”と言われるのはこの系統のサウンドのことが多い。

次に来るのが「レイクショア・ジャズ系」である。これはビパップを含めたシカゴジャズの総称であるが、どちらかというとピアノを中心としてトリオ+シンガーのバンド構成が多い。ピアノ奏者は白人が多く、湖付近のクラブが彼らの活動の中心になっていることから”レイクショア”と呼ばれている。スイングジャズよりのバンド、ブルースよりのバンド、またはブラジリアン系のバンドなどが典型的。

3番目は「シカゴ前衛派/フリージャズ系」であるが、これは楽器の編成、バンド構成にかなりのバリエーションがある。60年後半からのAACMの伝統を守り、いろいろな形式で即興演奏をおこなっているミュージシャン達の総称。ソロ演奏からオーケストラまで、一味違うジャズを聞きたい方は是非どうぞ!

最後は「ヤングジャズ系」である。これもバンド構成に様々なスタイルがあるが、基本的にはエレクトリックなサウンドで、フュージョンやR&Bまたはファンク調のジャズ。

シカゴ滞在が短期間の皆様には、まず「シカゴ・バップ系」をお勧めする。

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